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2009年7/4正式開通した捷運(地下鉄)文湖線の一駅[内湖]を歩く。内湖区内には台北駅方面から[西湖][港乾][文徳][内湖][大湖公園][葫洲][東湖]の7駅がある。水に関係する駅名が多いのは内湖区全体が湖だったからだ。

内湖文化史研究家[陳金讃]氏に紹介いただいた土地の生き字引[謝樹地]さんによると、戦時中は台北市内からの疎開や食物を求める人が日参してきた。その交換レートは台北市内の家一軒とガチョウ一匹だったと言って笑われていた。空襲でいつ焼けるかわからない市内の家は値打ちがなかったのだと。

戦後の住宅需要の最盛期には住宅建築用のレンガを作る工場が30か所余り稼働し、MRT港乾駅の[内湖高工]一帯では赤土を取る為3m程度掘り下げた地中から、流木やイカリの鎖などが発掘されたという。

その内湖にも昭和30年頃になる人口増による宅地化の波が押し寄せ1200haの田圃が失われ今は新興住宅街になってしまったと、昔の風景を懐かしむような顔をされていた。

日本時代の建物「内湖庄役場会議室」これに隣接し「米穀局統制倉庫」「派出所」の3棟が残されている。
1930年竣工の「内湖庄役場会議室」は古跡認定されている。戦後、一時期「中山堂」として使われたようだが現在は「区民活動センター」として利用されている。
【建物】1930年(昭和5年)。市定古跡。
【場所】MRT内湖駅徒歩10分。内湖区内湖路2段342号。
内湖庄役場会議室-1.JPG
「米穀局統制倉庫」は一部を残し駐車場に変わっている。
米穀統制倉庫-1.JPG
[派出所]は道路をへだてた全面の新館に移動している。旧舎は2010.10月初旬取り壊されます。
内湖派出所-3.JPG
前述の「謝樹地」さんによると、私達は今でも「会議室」と呼んでいるとの事だった。「内湖庄役場会議室」の並びには[郵局倉庫]や戦後建築されたであろう[区役所戸籍事務所]の建物などがあり、この一帯が内湖の役所街だったことがうかがえる。[区役所戸籍事務所]が利用していた建物と「派出所」は解体される運命だ。
内湖区戸籍事務所-1.JPG
「謝樹地」さんは、大正11年生まれの88歳の矍鑠たる人物で、美しい日本語を話され、今でも日本のTV番組を通じて日本と繋がっている、そして内湖庄役場に昭和16年から46年2か月26日間、勤めた、そしてこの間、役場を離れたのは軍事訓練の6か月間だけだと話された。まさに内湖地区の生き字引のような人だ。

戦前、戦中、戦後のお話の中で終戦時、日本政府の指示により、3日3晩かけて、役場内にある全書類を焼却したという話、そしてNHKの[のど自慢][相撲]を必ず見るとの事には、何か考えさせられるものがあった。又、終戦時には54人いた役場職員が国民党政府によって18人に減らされてしまった、私は18人の中の一人だった、とも言われていた。





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    歴史本では遥か昔の台北は大きな湖だった。この湖には圓山、芝山岩、寶蔵巖の3つの小さな島があった。そして数千年の年月を経て湖水の流出と土砂の堆積により湖は今の台北盆地に姿を変えたとある。

    この地域には漢民移民の福建漳州の人々が沢山入植した。開拓の功労者[林秀俊]の墓所は民権大橋の近所に、[何士蘭]の墓所は基隆にある。[内湖]という地名の由来は一帯の地形が凹形の盆地になっており、閩南語では凹は[オー]と発音する。そして似通った発音をする湖が付近一帯に沢山ある事から凹に湖を当て内湖と表記し閩南語で[ライオー]と言ったといわれている。
    内湖区の湖の一つ、区民の憩いの場[碧湖公園]。
    碧湖-2.JPG
    [国立台湾戯曲学院]。 
    国立台湾戯曲学院-2.JPG
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