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「228国家紀念館」
【建物】1931年(昭和6年)竣工。3級古跡。
【設計】井出薫。
【場所】MRT中正紀念堂駅徒歩10分。台北市中正区南海路54号。重慶南路と南海路の交差点に位置。
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建物は変遷をしながら現在の「228国家紀念館」に至っております。
1931~1945。「台湾教育会館」台湾初の近代的な芸術文化展覧館であった。
1946~1951。「台湾省参議会」戦後最も重要な民主主義の殿堂となった。
1959~1978。「米国駐台新聞処」米国の新聞社が借用しメディアの場となる。
1979~2002。「米国文化センター」台米断交後の新名称
2011’2月28日。「228国家紀念館」開館。
この使用者の変遷をみればこの建物が「228国家紀念館」に指定された理由が分かります。「228事件」の解説はWIKIPEDIAをご覧ください。

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    士林地区の「芝山公園」に教育の聖地と言われる場所が有る。ちなみに広辞苑を見ると「士」=学問、道徳などを身にそなえた尊敬に値する人物、「林」=樹木が沢山集まって生えているところ、とある。地名由来と関係が有るのか無いのか学校の実に多い地域だ。

    「芝山巌事件」の舞台となった現在の「芝山公園」入口
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    国語塾「芝山巌学堂」は「芝山巖惠濟宮」の後殿を使って開設された。
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    惠濟宮の住職は、国民党によって破壊されていた六氏先生之墓跡から遺骨を密かに移し、小さな石塔を建てて長い間守ってくれました。
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    戦後、倒され放置されていた伊藤博文揮毫の「學務官僚遭難之碑」
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    立て直された状態の良い「故教育者姓名碑」。台湾人教育者の名も刻まれています。
    周辺には破壊され放置されている碑が数個あり、これも歴史を物語るものとして貴重な資料です。
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    「芝山巖神社」の参道跡
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    芝山巌の頂上に建立された殉職「六氏先生之墓」。
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    芝山巖學堂が開設されて百年目の1995年(平成7年)後身の士林国民小学校の卒業生有志によって再建された。

    開校3か月後の(1895年明治28年)10月19日には第一期学生7名が卒業しております。
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    PS.「芝山巌事件」
    1896年(明治29年元旦)台北北郊の芝山巌で日本人教師6人と小使1人が土匪に惨殺された事件。

    1895年(明治28年)日清講和条約で台湾の割譲を受けた日本は6月に総督府を、そのわずか1か月後の7月には芝山巌恵済宮に国語塾「芝山巌学堂」を開校した。
    これには当時、文部省学務部長心得であった伊沢修二の、教育を最優先すべきとの具申を初代台湾総督樺山資紀が受け入れたのだろう。
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    日本統治に反対する叛乱勢力が元旦を期して台北を攻撃するという事は事前に予測されており「芝山巌学堂」の6人の教師達に避難することを人々は勧めた。
    しかし教育に命を懸けていた教師達は意に介さず「芝山巌学堂」を立去らなかった。そして叛乱勢力の襲撃を受けた際には、ひるむことなく教育の重要さを必死に説いたという事だ。このような彼らの教育に対する情熱、精神は多くの人々に感銘を与え、その精神は芝山巌精神と称され教師の目指すものとされた。
    関口長太郎(38歳) 平井数馬(18歳) 楫取道明(39歳) 井原順之助(24歳) 桂金太郎(27歳)中島長吉(27歳)
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    この事件を機に芝山巌は“教育聖地”と讃えられ、1930年(昭和5年)この地に「芝山巌神社」が創建され六氏先生をはじめとして、台湾教育に殉じた人々が祀られた。 当然、台湾人教育者も含まれています。

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      「草山御賓館」
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      【建物】1923年(大正12年)竣工。市定古跡。
      【設計】
      【場所】陽明山「中山楼」附近。台北市士林区新園街1号。

      内部は未公開のようです。
      「未確認情報」1923年の昭和天皇(皇太子時代)台湾行幸にあわせ建築されたと聞く。蒋介石が使用した時期がある。
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        2009年7/4正式開通した捷運(地下鉄)文湖線の一駅[内湖]を歩く。内湖区内には台北駅方面から[西湖][港乾][文徳][内湖][大湖公園][葫洲][東湖]の7駅がある。水に関係する駅名が多いのは内湖区全体が湖だったからだ。

        内湖文化史研究家[陳金讃]氏に紹介いただいた土地の生き字引[謝樹地]さんによると、戦時中は台北市内からの疎開や食物を求める人が日参してきた。その交換レートは台北市内の家一軒とガチョウ一匹だったと言って笑われていた。空襲でいつ焼けるかわからない市内の家は値打ちがなかったのだと。

        戦後の住宅需要の最盛期には住宅建築用のレンガを作る工場が30か所余り稼働し、MRT港乾駅の[内湖高工]一帯では赤土を取る為3m程度掘り下げた地中から、流木やイカリの鎖などが発掘されたという。

        その内湖にも昭和30年頃になる人口増による宅地化の波が押し寄せ1200haの田圃が失われ今は新興住宅街になってしまったと、昔の風景を懐かしむような顔をされていた。

        日本時代の建物「内湖庄役場会議室」これに隣接し「米穀局統制倉庫」「派出所」の3棟が残されている。
        1930年竣工の「内湖庄役場会議室」は古跡認定されている。戦後、一時期「中山堂」として使われたようだが現在は「区民活動センター」として利用されている。
        【建物】1930年(昭和5年)。市定古跡。
        【場所】MRT内湖駅徒歩10分。内湖区内湖路2段342号。
        内湖庄役場会議室-1.JPG
        「米穀局統制倉庫」は一部を残し駐車場に変わっている。
        米穀統制倉庫-1.JPG
        [派出所]は道路をへだてた全面の新館に移動している。旧舎は2010.10月初旬取り壊されます。
        内湖派出所-3.JPG
        前述の「謝樹地」さんによると、私達は今でも「会議室」と呼んでいるとの事だった。「内湖庄役場会議室」の並びには[郵局倉庫]や戦後建築されたであろう[区役所戸籍事務所]の建物などがあり、この一帯が内湖の役所街だったことがうかがえる。[区役所戸籍事務所]が利用していた建物と「派出所」は解体される運命だ。
        内湖区戸籍事務所-1.JPG
        「謝樹地」さんは、大正11年生まれの88歳の矍鑠たる人物で、美しい日本語を話され、今でも日本のTV番組を通じて日本と繋がっている、そして内湖庄役場に昭和16年から46年2か月26日間、勤めた、そしてこの間、役場を離れたのは軍事訓練の6か月間だけだと話された。まさに内湖地区の生き字引のような人だ。

        戦前、戦中、戦後のお話の中で終戦時、日本政府の指示により、3日3晩かけて、役場内にある全書類を焼却したという話、そしてNHKの[のど自慢][相撲]を必ず見るとの事には、何か考えさせられるものがあった。又、終戦時には54人いた役場職員が国民党政府によって18人に減らされてしまった、私は18人の中の一人だった、とも言われていた。





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          台湾は南国フルーツが豊富な土地で内でも台南附近には有名な産地が沢山ある。そんな果物を扱って台南で一番古い果物屋さん「莉莉水果店」が「台南愛国婦人会館」の隣に有る。
          水果店.JPG


          【台南愛国婦人会館】
          【建物】大正年間(竣工時期不明)。市定古跡。
          【場所】台南市府前路1段195号
          今回訪問時は工事囲いが取れ奇麗に改修されていた。従前通り台南市立図書館として使用されているのだろうか。
          IMGP7303.JPG

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